自死遺族支援のためのシンポジウム ―支援のための提言―

(つづき B) 第2部■自死で家族を亡くした経験から伝えたいこと (NPO)全国自死遺族総合支援センター 事務局長 南部 節子

私達大阪出身で、新婚当時奈良に住んでおりました。晩婚で夫も私も36歳。子供できへんかなと思ったんですけど、二人の子供に恵まれて、奈良時代は本当にそれなりに幸せだったんです。
でも、1987年に夫の会社が突然倒産してしまいました。夫は石油のコンビナートでプラント関係の加熱炉を設計していたエンジニアです。仕事を大阪で探したんですが、なかなか見つからなくって、東京の大手の建設会社が来ないかと誘ってくれました。子供もその時は3歳と5歳だったので一緒に上京しました。

そして、夫は東京に来て、最初はちゃんと定刻に帰っていましたが、仕事のこと言わないんですよね。3年くらい経ってから、夜になると電話がかかってきて、「うちへ来ませんか」というお誘いの電話が4〜5件ありました。会社の内容を聞くと大きな会社が2件ありました。私はそこへ行ってほしい、行ってくれると思ったんですが、一番小さな会社、大手の企業から独立された社長のところへ決めちゃったんです。20人くらいで、それも遠い横浜。最初からだったんですが「足がしびれる」とか言い出しまして、単身赴任することになりました。

1週間にいっぺん、金曜日に帰って来ました。それも洗濯物を持って帰るんです。「俺が洗濯したらお前は何にもすることないやろ、お前のために洗濯物持って帰っている」と言われて、せっせっと持って帰りました。その会社に変わってから、会社が小さいし、土日、完璧に休むことはなかったですね。

亡くなったのが2004年ですが、2003年頃からとくに忙しくなりまして、金曜日帰っても洗濯物を置いて土曜日帰って、土曜日帰っても日曜日帰る。その頃腰痛が出ていたので、2週間に1回家に帰って来た時に、整形外科の病院に通っていたんですが、朝から晩までかかって、ようやく家に帰って来てもチョッと寝て、朝には出かけていました。

だんだん、身体が悪くなっているのが分かってきましたから、私は身体のことだけを心配したんですね。仕事が忙しくて身体が疲れているんだ、そういう理解をしていたんですよ。

“うつ病”なんていうことは考えられなかった。実は10年前に2回失踪しているんです。
その時にうつ病を発症していたのに、私は気まぐれやったんだと思ったんです。お医者さんも行ったんですが、教えてくれなかった。亡くなってから、精神科医の先生が「南部さんね、ご主人はうつ病ということを自分で知っていて、家族には心配させまいと思って、必死で普通を装っていらっしゃったんじゃないですか」と言われ、ショックでした。私、 本当に鈍感で、お医者さんもうつ病のことを教えてくれなかったんです。それもご主人が奥さんに知らせてくれるな、と言われていたんじゃないかって。その精神科医の先生が教えてくれました。

私は全く鈍感でした。只々、主人があと2年で定年になったら世界一周の船旅に行こうと。
テレビ見ておいしいものが出てたら「あ、おいしいもの食べに行こう」と言ってくれたんです。私はそっちのほうばかりで、新聞切り抜いて「お父さん、お父さん、あるよ、船旅あるよ」とか言っていたんです。その頃、今考えれば全然反応が無かったです。いつもだと「あ〜」とか言ってくれるのに、全然無視というか。何で気付かなかったのかなと、本当に後悔ばかりです。

あとから会社の人からいろいろお話を聞くと、職場の人間関係もあったらしいです。「自分は技術者で技術がちゃんとしていれば仕事はついてくる」という考えだったらしいですね。
でも、営業の人は口で上手くいって仕事を取ってくる。そしたらそれを技術で補うことはすごく大変で、クレームが来たり、その処理も大変辛んどかったらしいという話を聞きました。

そして身体に疾患があって、腰痛、胃も悪い、歯も抜けてる。食事の時等に、子供も、私も「歯医者へ行こう、お父ちゃん、歯医者へ行こう」と毎回言いました。「お医者さんも、日曜日やっているところを探して行こう」って言いましたが、「行く暇ない」と言われました。それも「定年になったら、人間ドックへ入って、きれいに治すから」と言われちゃったんですね。だから、それ以上私も言っちゃいけないのかなと思いました。

そしてすでにうつ病になっていましたが、私は気付かずに只々身体のことばかり心配していました。そして、2004年の1月31日に、私も一緒に整形外科に行ったんです。そしたらお医者様が「ヘルニアでしょう」と言われ、痛み止めの薬だけくれました。私はその時入院って言ってくれたらいいのにと思いました。

5時頃に家に帰って、話を聞かなくちゃと思ったんですけども、聞けずに、夕飯にしたんです。ご飯を出したら、「ウウ」って吐きそうになって無理やり食べたんです。それを見ていたら腹が立ってきました。「なんで無理に食べるの!」「何で休まへんの。何でそんなとこ辞めてしまい」そんなことしか言えなかった。亡くなる前は怒ってばかりいました。

でもあとで、こういう会場で一番前の男性が「僕、南部さんの気持ちすごく分かります」と言われました。「自分も病院の医者で、患者は山ほど来るんです。休めだとか、辞めろとか言われても耳に入りませんでした。只々患者が待っているから行かなくちゃと思いました」と言われました。その方は奥様が看護師さんでおかしいと思われて、病院に行かさな かったらしいんです。それで助かったと仰っておられました。

「はあ、そうだったのか。辞めろとか言わなくって、もう行かさなかったらよかった、そこに」。私は本当に鈍感だなと後悔しました。私が殺してしまったんだと当初は思いました。

そしてそれからですね、2月1日に駅まで送っていったのが最後でした。それで2月4日の9時34分。亡くなった時間とこれまったく一緒なんですよ。私の携帯に最後にかかってきたのが夜の9時34分。でも、私他の電話に出ていて、息子が取ったんです。「お母さん、お父さんおかしい、何を言っているかわからん」と言われ、あわてて電話を取ったん ですが、切れてしまいました。すぐにかけなおして、「切ったらあかん。心配するやないの」と私はまたそれを怒ったんですね。すると夫は「切れてしもうたんや。大丈夫」と答えました。

その後、もやもやしながらも何で電話できなかったのか自分でも分かりません。毎日毎日電話を持ったまま、どうしよう、どうしようと思って日を過ごしました。そして、その最後の電話以降、電話をかけてもかかりませんでした。

会社から「ご主人帰られていますか」との電話に、しまったなと思って横浜のマンションに飛んで行きましたが、綺麗に片付けられていて、1月31日に買った回数券11枚がそのまま、家に帰るための回数券が。洗濯ものもそのまま。ただ、会社への出勤用のカバンがなかったんです。きっと会社に行かなければとそのカバン持って出たけれども、行けなかったと言うことかなと解釈しています。会社にも「チョッと辛んどくって、遅れて11時頃に行きます」という電話があったらしいです。そのまま来なかったということでした。

私はマンションの廊下のカメラのビデオを借りて、持って帰って見たいと思ったんです。
何時出て行ったのか、でも残念ながら業務用で見れなかったんです。だからどこへ行ったのか、1週間も行方不明になって、最後の電話のあった2月4日から1週間後の2月11日、夜の9時34分、JRに飛び込み自らの命を絶ちました。

私達は新婚当時暮奈良県の大和郡山で公団に住んでいたんですが、その楽しかった時代が丁度見える場所でした。それがたまらなく辛かった。私の携帯と同じ時刻、私に「助けて」と言っていたのに、何で気付かなかったのか、もう本当に自分を責めることしかなかったですね。

この自責の念と夫は私達を捨てたという怒りが交互に押し寄せました。腹が立ったのか、息子も「織田信長みたいに俺は位牌を投げつけたい」と言っていました。でも、子供達も捨てられたという怒りの反面、「ああ、あの時こう言っといたら良かった、お父さんと一緒にいてたら死ななかった」。娘も最後に「お父さん、こんなこと言ったのよ」、「私がこう言っていあげれば良かった」と。

それを私たち親子3人で分かち合えたことが良かった。もう、やりようがない、大泣きに泣きましたし、あれだけ泣けるかというぐらい泣きました。お互いに子供も「お母さんが後追いしたら、俺等も死ぬからね」と言われて、監視するように何処へでもついて来てくれました。そのことで今の私がいる、私は助かったと思っています。これが私の心理というか、もう最初から信じられないんですよね。死んだと思えない、認められないということでした。

また、他の方から私が責められなかったということも良かったですね。親戚からも。「姉さんいて、何で」ということは一切なかった。むしろ、「お姉さん大丈夫」って言ってくれました。とても助かりました。

精神科の病院に行って、ひとりにしちゃあいけないのに独りぼっちにして、亡くなった人の話もいっぱい聞きました。病院を変えるとか、そういう方もいっぱいいましたけども、なかなか難しいのではないかと思います。この気持ちは一生消えません。皆さんが分かち合いにいらっしゃって、こういう気持ちが何時になったらなくなると思いますか。無くな りませんよ。だから、それはそれとして持ったまま人生の再構築、新しい生活をしていくということですよね。「南部さんはどうやって立ち直ったの、乗り越えたの」と言われます。

「まだです」。この言葉が大嫌いでした。克服していません。立ち直っていません。乗り越えていません。忘れる、そんなしたら可愛そうでしょう。「亡くなった人を忘れちゃいけませんよ」と言っています。鈴木先生も何回も仰っています。「そのまま受け入れる。受け入れてほしい」。

私はお蔭様で、あるお友達がいたから、助かったと思っています。亡くなった時から、妹や親戚もいつも心配して、皆電話をくれました。主人の大学の友達もよく来てくれました。
でも、いちばん近くにいてくれたのは子供の幼稚園の送り迎えのグループのひとり、彼女は4ヵ月間ですよ、4ヵ月間毎日。本当、毎日来てくれました。いつも来てくれて、お茶出さないといけない、話をしなくちゃいけない、そんな時に彼女はお茶を出してくれて、子供を駅まで送り迎えしてくれて・・・。私が用意していたご飯を出してくれて、お茶も 一緒に飲んでくれる。あと全部用意したものを出したり、片付けたりしてくれたんですよ。

すごい助かりました。そして、私は帽子かぶって、黒い眼鏡かけて、マスクして、家にいてたんですが、ずっと泣いてまいした。「ああしたら良かった。私がフォローしたら良かった」何言っているか覚えてないんです。彼女は「いいかげんにしいや」とか、「死んだ人、浮かばれないよ」とか一切言わなかったです。ずっ〜と話を聞いてくれました。最後に「南部さん、だれも悪くないのよ」と言ってくれました。

「そうや、そうだ」と思って、お父さん何で死んだかっていうことを一生懸命調べました。
それで私ある程度納得できたんです。遺書があったから、「仕事ができない。全くできない。 何でか分かりません」って書いてありました。きっちりした人なのに字が乱れて、もう正常じゃなかったんだなと思いました。そして何でか分からなくて、本人も何でか分からなかったんじゃないですかと思いました。
何で自分が死にたくなるのか、死んじゃうのか。本当なら戻りたかったんじゃないかなと思います。

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