東日本大震災被災地での被災者・自殺者の現状と今後を語る

基調講演:東日本大震災被災地での傾聴活動報告

お 断 り
シンポジウムの講演では金田講師が被災地で撮影しました画像に沿って被災地の状況をご報告させていただきましたが、当報告書におきましては被災地、被災者の感情や金田講師の立ち位置、思い入れ等を勘案、また肖像権、個人情報保護の観点等から、シンポジウムで使用した画像は掲載しておりません。
傾聴活動報告の中で金田講師がご説明しております場所・場面・人物・人間模様等に関しては、皆様それぞれに画像のイメージを描いていただきたく存じます。
なお、当報告書掲載写真は金田講師の説明に近いイメージのものを借用し、参考までに掲載したものですので、あらかじめご承知おきください。

講師 Café de Monk 主宰 通大寺(栗原市)住職 金田 諦應

住職 金田 諦應の写真

ご紹介いただきました金田でございます。よろしくお願いいたします。被災地ではですね、Café de Monkマスター、ガンジー金田というようなことで通っております。このあたりも後でお話したいと思うんですけれど…。篠原老師とはネットワーク風の方で大変お世話になりまして、実はこれからいろいろお写真をお見せしたいと思うんですけれど、篠原老師からこのお話を受けたのが6月位でした。
で、まあ10月27日だから先の話だなと思っていたんですけれども、あれよあれよという間に、震災から7ヵ月が経ってしまいまして、篠原老師からお話を賜りましてからもう3〜4ヵ月経ってしまったということでございます。

千葉に新幹線で着いたんですけれど、はっきり申し上げて被災地のサポートをしている方々はもう皆んな疲れきっています。もちろん被災された方もそうなんですけれども、新幹線に乗りながら「ああ、やっと、ちょっと被災地を離れるな」という思いと被災地を離れる不安というものですか、そういうものが入り混じった複雑な心境でですね、東京駅に降り立ったというのが本当の素直な気持ちでございます。被災地が今でも心配でたまらない。私のところは被災地から40キロばかし、40〜50キロ離れているんですけれども、やはりそこにいても被災地に行くとなんかこう安心するというんでしょうか、そんなふうな気持ちがあります。

これが栗原市、私のお寺なんですけれどもこの通り、実は震度7のものすごい揺れでございました。震度7と言ったらもう計測不能。この前に岩手、宮城内陸地震が2年程前に起こっておりましたのでかなり補強工事をしました。従ってこの通り瓦も一枚も落ちないで済んだような状況でございます。これとは対称的に沿岸部の震度は栗原よりも低かったんですけれどもかなりの津波でございました。それで私の知っている限り、曹洞宗で宮城県内だけで31ヵ寺が全壊状態ということになっております。

今回の活動をする前にですね、ネットワーク風の方に加入させていただきました。現地の相談所ということで活動しておりました。実は栗原市の平成17年の自殺死亡率は48.6%、 全国の2倍でございました。これは大変な数字でございまして、人口80,000人で高齢化率が31%の少子高齢化の地域でございました。

こういう状態の中で、本当に近しい友人がやはり自殺をしてしまいました。これをきっかけに栗原市で"命と心を考える市民の会"というのを起こしまして、篠原老師にも来ていただき、皆真剣に取組みました。それでも、なかなか自殺する人が次々増えて止まらないということで、実はこのような"命と心"というのぼりを立てまして一切お経も何も読まないでですね、25キロ市内を行脚したということがございます。命と心、黙々、黙々、黙々と歩いたんですけれど、25キロでした。金成というところから築館、築館というところから高清水というふうなことで25キロだったんですけれど、今年度は3月に2回目の行脚をしようかというふうに思っていた矢先の大震災ということでございます。篠原老師にいろいろ教えを受けていたんですけど、私はそれを全部取り込んでですね、世界システム全体が制御不能社会に陥っているんじゃないかというところまでですねこの頃考えるようになってまいりました。政治それから経済、文化すべてが制御不能になってきているような気がします。私達はこの社会システムを長年かけてつくってきたんですけれども、その社会を私達の手で制御できなくなってしまったんじゃないのかなというそういう不安と恐怖の中で、このような活動をしていたんですけれども、丁度その時に起こったのがこの東日本大震災でございました。

地震で止まった時計の写真

3月11日、2時46分の出来事でございます。3分間揺れました。3分間って、皆さんどの位の時間だか分かりま すか。大体「津軽海峡冬景色」を一曲分歌った位の、その間ずっと揺れていました。本当に最後の一分間位はも う絶叫しましたね、「止まってくれ」と。それほどすごい揺れでございました。この写真なんですけれども、これ 私、すごく大切にしている写真でございます。



これは実は南三陸町志津川というところの夕日でございます。
これは実は震災の10日前に撮った写真で、たまたまここにお寺の方の研修で行っておりまして、「ホテル観洋」という小高いところなんですけれども、ここから夕日を眺めておりました。すっごく綺麗だと思ったので思わずシャッターを押したというところでございます。見えておりますのは牡蠣棚。牡蠣ですとか養殖の棚なんです。本当に太古からこの海が私達の生活を支えていた。特に、南三陸町と私の住む栗原っていうのは塩の道で繋がっていましてね。ここから出る海産物が私達の命を支えていたということで、どこかしら、やはりどっかDNAの中にここと繋がっていたものがあるんじゃないかなと思います。

これが3月11日の日にですね、この同じ湾に無数の屍が浮かんだんです。本当に無数のお父さん、お母さん、それから子供、親、兄弟、ペットまでですね、ここに浮かんだということでございます。皆さん想像してみて下さい。3月11日。あの日はですね、本当に綺麗な星空でした。夜は月も出ておりましたし、そして星も出ておりました。それで電気が全部止まってしまいましたし、音も無く車も走っておりませんでしたし、その星空を眺めながらですね、「ああ、綺麗だな」と思いました。「あ、どっかでこういう星空を見たことあるな」と思ったんですけれども、思い出してみたら30年前に行ったインドのブッダガヤで見た星空と同じでした。ひとつひとつの星がはっきり見えたんですね。

間違いなく私は40キロ先の離れたところでその星空の下にいて、そして40キロ先のこの志津川湾には同じ星の光を浴びている無数の遺体があったということです。それが非常にショックでございました。私、その時に良く被災地のことを語るのに宮沢賢治の“雨にも負けず…”といふうなあの詩を出される方が多いんですけれど、私はその星空を見ながら、実は“なめとこ山の熊”という、ご存知でしょうか童話があるんですけれども、その“なめとこ山の熊”の最後の一番最後のシーンを思い出したんです。
じゃあ、ちょっと読んでみます。 小十郎という熊打ちと熊との物語なんですけれど、小十郎は熊の言葉を理解することができる熊打ちだったんですね。こういうふうな素晴らしい、賢治は恐らくこの最後のシーンを描きたかったんだと思います。小十郎が熊に殺されてからの描写です。

なめとこ山の熊
とにかくそれから三日目の晩だった。まるで氷の玉のような月が空にかかっていた。雪は青白く明るく水は燐光(りんこう) をあげた。すばるや参(しん)の星が緑や橙(だいだい) にちらちらして呼吸をするように見えた。
その栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の上の平らに黒い大きなものがたくさん環(わ) になって集って各々黒い影を置き回々(フイフイ)教徒の祈るときのようにじっと雪にひれふしたままいつまでもいつまでも動かなかった。そしてその雪と月のあかりで見るといちばん高いとこに小十郎の死骸(しがい)が半分座ったようになって置かれていた。思いなしかその凍(こご)えてしまった小十郎の顔はまるで生きてる時のように冴え冴え(さえざえ)して何か笑っているようにさえ見えたのだ。ほんとうにそれらの大きな黒いものは参の星が天のまん中に来てももっと西へ傾いてもじっと化石したようにうごかなかった。
注)参の星:オリオン座の真ん中の三つ星。星座の二十八宿のひとつ。

これが“なめとこ山の熊”の最後のシーンで、賢治が描いた世界なんですけれども、“なめとこ山の熊”っていうのは大自然の象徴だと思います。熊打ちは生業のために熊を打ちます。そして熊は時としてその人間に牙を向けるんですね。人間とこの大自然の悲しいけれども親しくて、温かい関係が描かれている。そしてその関係を大きく包み込んでいる宇宙があって、そのさらに宇宙を、大宇宙を感じ取っていく賢治の視点がそこにある。これは私達の大乗仏教のですね、法華経の世界の中に描かれている、法華経の中の世界観じゃないのかなって思います。その時にふと思ったのは、それを見ながら思ったのは私とあなた、私と他人の命が本当にひとつになってですね、被災地の人とひとつになったような、そういうふうな感覚がありました。


実はこれ被災から10日後でございます。当時はガソリンも何もなかったですし、たまたま 新聞記者の方が家に来て「実は三陸町から沢山のご遺体が来るよ」ということを聞きました ので、すぐ市長の方に電話をしまして「ぜひ、供養をさせてほしい」ということを申し出ま した。火葬場は特定・指定の事業者になっておりましたので、そちらの方とも連絡を取っ て入らさせていただいたんですけれど、実はなかなか難しいんです。この火葬場で特養ボ ランティアをしたりですね、遺体安置所で読経をするというのは行政の方はかなりシビア になっておりまして、こういうふうに入れたのは非常にラッキーなことだったなというふ うに思います。恐らく被災地で一番最初に入ったのは私達かなと思います。

この写真も、地元の若い新聞記者だったんですけれども、泣きながらシャッターを押したんです。なかなかシャッターを押せなかったですね。震える手で、こうカチッとシャッターを押したその一枚です。どうしてかと言いますと、実は最初のご遺体がちっちゃな女の子でした。小学校5〜6年生でしょうかね。「あっ」と思ったんですけれども「ちょっと和尚さん待ってください」と言うんですね。待っていたら、やっぱり同じ位の小学校の女の子の遺体が着きました。その二人は仲の良い友達だったんで、お父さんとお母さんが一緒に荼毘に付してあげたいと、そういう思いがありまして少し待っていたんですけれども、私達も本当にこの時震えながらお経を読みました。それが最初の遺体の最初の火葬でした。

それから200体程このような形でボランティアを続けさせていただいたんですけれども、この間ある関東の行政の方からいろいろ質問があって、「震災の備えに何が必要ですか」と言うそんな話だったと思うんですけれども、食料だとかいろいろなものは結構皆んな用意するんだけれど、「お願いだから棺桶を沢山用意しておいて下さい」と言ったんです。皆さん考えてみて下さい。亡くなった人、亡くなった人を包む、入れる棺桶がなかったんですよ。ですから皆ビニールシートだとかそういったものに包まれてですね、遺体安置所、遺体安置所といってもですね、キチッとある訳ではなくて、小学校の下が1階で安置所、2階が避難所そんなような状態でした。何時までも棺桶に入れられない。この火葬場でも何軒か、やっぱり手作りの棺桶を持って来られました。そしてビニールのシートに包まれてですね。

私達はやっぱりこう生き残ったものが次のステップに行く時に、死んだ人をですね、そのような状態に絶対できませんので、やはり人間らしい形で安置させてあげる、次はやっぱ自分達が生きるすべを探していくということで、本当に冗談抜きに「沢山棺桶を作っておいて下さい」と言ったんですけれども…そのような状態でした。


約49日間、1ヵ月程ですね火葬場でボランティアをしました。1ヵ月位経ちますと大概ガソリンも潤沢に来ますし、浜の方の和尚さんも来られるようになりましたので、49日を境に被災地を行脚しようということで、鎮魂の旗を持ってですね、南三陸町を10キロばかしでございましたが、行脚をさせていただきました。まだこの辺は、今回は津波ですので、天国と地獄の本当に境がはっきりしています。

火葬場でボランティアの写真

この辺はまだ何もないです。

ちょっと行きますと、もう100メートル位瓦礫になっ ているんですけれども、確認できるでしょうか自衛隊 の方が一生懸命瓦礫を探しています。これは遺体の捜 索です。私達が通っても一生懸命脇目も振らずやって いました。この日は6体見つかりました。49日、6体、 何とか49日までに見つけてあげようということで必 死になってやっていました。

現場写真

津波は川を遡って来ていますので、これだけ瓦礫がこっちまで流れてきています。まだ写真が沢山落ちていました。その写真を、その写真というのは亡くなった方、被災された方の大切な思い出ですので、それを踏まないように、踏まないように歩いて来ました。本当に涙が流れましたね、この時は。釘も沢山落ちていましたので、できるだけそれを踏まないように、踏まないように。キリスト教の牧師さんも一緒でした。もうこの状態の中でですね、キリスト教であろうと、神道であろうと、何であろうとですね、私一切関係ないなとつくづく思いました。このような状態の中でお経を海に向かってなんですけれども唱えさせていただきました。この写真が結構世界中を駆け巡ったような感じがします。共同通信で撮ったので、世界中を駆け巡ったんですけれど…。


これは最初にボランティアに入ったところなんですけれども、とにかく炊き出しだということで、49日を境に私達はもう一切衣を着ないと、もうとにかく現地に行っていろいろお世話しようというふうなことを決めましたので、一番初めに入ったのは孤立集落でした。

孤立集落の写真

完全に道路が寸断された歌津半島の馬場中山 というところに入ったんですけれども、このような感じで建っているんですけれど、中はメチャメチャですので、全壊状態です。こんな感じです。道路もこんな感じ。何時釘を踏むか分からないような状態で、だから道端にですねパンクの修理します!の看板が沢山並んでおるような状態です。

これが馬場中山の自活しているいわゆる公の避難所ではないところです。こんな感じで集会所が避難所になっています。約120人位いましたかね、この時で。たまたま私のところにオーストラリアのメルボルンの知り合いから1万ドルのですね、緊急支援金が来たんです。レートでいうと80円ですか、80万円位ですか。それが来たんで、じゃあやろうかということで、最初に入ったのがこの馬場の中山避難所でした。うどんの炊き出しをしたんですね。このように皆さんおいしそうに食べていただいています。

その時あったのが国境なき医師団だったんですよ。避難所の責任者の人に挨拶に行ったんですけども、彼は国境なき医師団の方に食って掛かっていたんですね。1時間位やり取りしていました。最後は泣き出したんですけども、丁度この日にお医者さんが帰る日だったんですね。「お前は帰るのか、俺達を見捨てて帰るのか」そんなやり取りをずっとそばにいて聞いていました。それで、あ、医者ってこんなに頼りにされているんだなと思いまして、私達宗教家はどのような立ち位置で、この被災者に向き合ったらいいのかというふうなこと、この時すごく考えさせられました。


「なめとこ山の熊」のところでチョッとお話したんですけれども、やはりその大きな宇宙をさらにこの人間と自然の冷たくて、悲しくて、温かい関係を包み込む宇宙をさらにその上から見ていく視点を持っているのが私達宗教家だと思います。ですので、そういう立場で被災者に立ち向かおうと、係わろうというふうにこの時決心したんです。
大変ありがたいお医者さんでした。彼等は一生懸命でした、本当に。


喫茶店の看板の写真

そこで考えたのがこれでございます。
ここに“Café de Monk”っていう喫茶店の看板があるんですけれども、係わるといってもですね、なかなか係わりが見つけられないんですよ。どういうふうに係わっていいのか分からない。恐らく沢山の方がですね、気持ちはあるんだけれどもどうやっていいか分らないというのが、恐らくほとんどの方だったんだと思うんですね。
「じゃあ、私達は喫茶店でいこう」というふうになったんですね。この看板は瓦礫を頂いてきて作ったのですが、“Café de Monk” コンセプトはこんな感じなんです。Monkっていうのはお坊さんのことですね。で、平和な日常に戻るのには長い時間がかかると。あれこれ文句のひとつも言いながらチョッと一息つきませかと。お坊さんもあなたの文句を聞きながら一緒にモンク。
これモンクをかけたんですけれどテーマ音楽はセロニアス・モンクってご存じでしょうか。セロニアス・モンク(1917年〜1982年 アメリカのジャズピアニスト)っていうピアニストがいるんですけれども、それがオープニングテーマで必ずやるように、モンクを沢山かけたチョッと遊び心があるんですけれども。

それでもうひとつのアイテムがケーキです。ケーキって特別の食物ですよね。例えば女性 を口説く時でもですね、最初に甘いものを食べさせるというチョイワル親父の経験がこう いう時に生きたのかなというふうに思いました。とにかく種類を沢山作ってもらったとい うことです。作ってくれたのが近くのケーキ屋さんで、実はこのパテシエ、2番目の大き い男なんです。彼は阪神・淡路の時に自分も被災してですね、柱の下敷きになって瀕死の 重傷を負って、ほうほうの体でこの田舎に帰ってきたというような男でしたので、「・・・ こういう訳だ」と言ったら「任せておいて下さい、和尚さん。作りますから」ということで作 って本当に夜も寝ないで作ってくれました。喜久乃家さんというケーキ屋、まあ親戚なん ですけれども一応宣伝しておきます。


これは公立志津川病院。この映像なんか良く見られると思います。これ4階まで水が来てですね、かなりの方が亡くなりました。病院です。最初に入ったのがここでした。沼田というところで、この時は近くのベイサイドアリーナが避難所になっておりましたので、沢山の方々がここへ食べに来られました。こんな感じですね皆さんの前に出す訳です。そうするとおじいちゃん、おばあちゃんなんかは、もうねえ、本当に美味しそうな、嬉しそうな顔しているでしょう。飲み物もですね沢山用意しました。10種類位用意しました。この頃まで被災地は救援物資でもう与えられるだけだったんですね。ですので"選んでもらう"と思いました。普通日常だと選ぶ楽しみがありますよね。ですので選んでもらおうと、ケーキもこのようにして沢山もって行きました。

南三陸町は3軒程ケーキ屋さんがあったんですけれども全部流された。ということで、こんな感じですね。最初の“Café de Monk”はこんな感じだったんですよ。ただ、今考えますとこの時はまだ被災者が配給っていうか、平等に支援物資を受け取るというふうな、そういうふうな空気があって、この時も担当者の方に喫茶店の主旨を言ったんですけれども、やっぱり平等にという事で、200個近くも持っていったような感じがします。本当はそんなに持って行くことはなかったんですけれどもどうしてもそういう空気がありましたね。

馬場中山の写真

これは先程1回目に炊き出しに入った馬場中山っていうところの歌津半島です。
この遥か先が、いわゆる30キロ先が、最初に沈んだところって言っていました。バキッと音がして、ああ普段とチョッと違うぞといってこの人達は皆丘の上に上がって。
ここで亡くなったのが寝たきりの何人かだというようなことで、いろいろ物議をかもしだしていたんですが、津波は“てんでんこ”という言葉があるんですけれど、とにかく“てんでんこ”になって逃げて、おばあちゃん達がチョッと犠牲になってしまった。すごい言葉ですよ。津波を“てんでんこ”っていうのは。これはチョッとやそっとでは解釈できない。まあ、物議をかもすんですけども、チョッと安っぽいヒューマニズムでは解釈できないような三陸地方の生き残る術というんでしょうか。命を繋ぐ術というんでしょうか、そういうふうな深い言葉があると思います。

注)てんでんこ(津波てんでんこ) : 三陸地方に伝わる格言。津波の際には親や兄弟にも構 わずとにかく逃げろ。そうすることで一家は全滅を免れることができるという意味合い。


テーブルの写真

こんな感じでいつもテーブルの脇に座ってですね、下からの目線で話しかけます。こちらの方は勿論お坊さんです。帽子を被っている方がお坊さんです。こんな感じでケーキを持っていくとですね、すごく喜びます。

こちらのおばあちゃん、笑ってケーキを食べているんですけども、実はこのあとで「和尚さん、チョッと」って呼ばれまして、ご供養に行きました。
息子さんが亡くなったんですね。ものすごく悲しい話しを聞かされて「あ、これが現実だな」とつくづく思いました。ボランティアの方も沢山来ておりましたので、ボランティアの方にも召し上がってもらったんですね。

まあこんな感じで沢山マスコミが来たんですけれども、今インタビューを受けている方は気仙沼で被災して、沢山車が津波に襲われて、ガラン、ガランと波に巻き込まれて、その中で助けを求めている人達を随分見たんですね。で、心の中に留めていて私が「どうだったの」と言ったら、「わ〜」と言って喋って、まあ本当に辛い思いをしたんだなと思います。

たまたまこの場所をお借りしていた場所の娘さんが亡くなっていたんですよ、実は。
実は津波とか、地震ではなくてこっちに帰って来るのに4日間かかって、そして避難所に着いていろいろ皆さんのお世話している間に、心臓発作を起こして1週間位で亡くなっちゃった。そのような関連死っていう方も沢山いらっしゃいます。恐らくそれが1万5千何人か、今、まだカウントされていないんじゃないかなと思います。それを合わせると恐らくかなりの数が関連死で亡くなられているなっていうふうな感じがします。

「和尚さん、お願いします」と言われましたので、ケーキを持ってご供養したんです。これチョッと私撮れなかったんで、テレビのものをちょっと拝借したんですけれども、こんな感じで何か坊さんらしいことをやっています。このような感じでですね、いました。


この子がすごく可愛そうで、あの、お父さんがやっぱり三陸町で防災センターに勤めていて、防災センターっていうのは本来はもっと頑丈でいいはずなんですけれども、そこで津波に呑まれて亡くなってしまった。実はこの時にお母さんが身重で気仙沼の病院にいたんですね。私が行った時にこの子のおじいちゃんが、こういう訳で津波に巻き込まれて、そして遺体が3日前に発見されたんだよ、ということをこの子のお母さんに伝えに行っている時でした。
「えっ」と思ったんですすけれども、おばあちゃんに「和尚さんにチョッと来てお経を上げて下さい」と言われてお経を上げました。その時は90歳位になるこの子のその人のおっぴいちゃん(曾おばあちゃん)かな? 一人部屋の津波の被害のない2階にいて、そこに白いお骨があってですね、本当に泣いていました。その時に丁度伝えに行ったおじいちゃんが帰って来られて、おじいちゃんは号泣でしたね。本当に号泣でした。
お父さんが死んでこの子は避難所でおじいちゃん、おばあちゃんと暮らしてる。お母さんは気仙沼。でも普段は絶対に泣かなかった。「和尚さん、絶対に泣かないんだよ、この子は。でもね、夜になるとひとりでね、壁に向かって『メソメソ、メソメソ』って泣いているんだよ」って。それでアンパンマンとサッカーボールをプレゼントして、さらに自転車までプレゼントしてね、「頑張れよ」と言っておきました。いい顔しているでしょ。


あ、これさっきのおばあちゃん。こうやって食べていたおばあちゃんなんですけども、「和尚さん」って言うんですよ。「どうしたの」って言ったら、「家でもね、実は息子が亡くなったの」と聞きました。
そしたら全部津波で流されていますから、仏壇だけが残って、そこのとこに息子さんの遺影があって、位牌があったんですけども、そこへ“お父さんへ”って書いてあった手紙があってね。お父さんの誕生日の日に、丁度卒業式だったんでお父さんに手紙を書いたんですね。「生きていれば45歳だよ。3月10日の日にお父さんにお帰りって言ったのがうちらの最後の会話でした。最後にありがとうって言いたかった」と。で、小学校を卒業したんですね。「おめでとうだね。お父さん今どこにいますか。家に帰って来ているなら、たまに何か合図出してね」まあこのような手紙の前でお経は読めません。

たまにはですね、こういうふうな声があったんです。「ケーキも良いけども、たまには赤提灯も良いよね」というふうなことで「焼き鳥食べたい」ということで、「じゃあ、焼き鳥なら焼酎か。あと何がほしい?」って言ったら、そのまま言いますよ、「焼き鳥、焼酎、後は女だべ」こんな感じで、まあ漁師さんの世界ですからこんな感じだったですよ。「じゃあ、赤提灯だ」と言って“Café de Monk”のところを消して“赤ちょうちん de Monk”ですね、やりました。こうやって、焼き鳥と厚揚げ焼いてですね、実はこの時ですね、コンパニオンを二人程連れて行きました。


これはですね、国際交流です。二人、ALTを連れて行ったんです。「お前達に日本の文化を教えてあげる」と。「コンパニオンっていう文化があって、お酒を注ぎながらもてなす文化だよ」と言ってですね、チョッと日本の文化を教えますということで連れてったんですね。二人はそれをですね、一生懸命やりました。もうクタ、クタに疲れたそうです。べサニーさんはオーストラリア、ビビーさんはコロラド州です。

注)ALT:Assistant Language Teacher 外国人指導助手



こんな感じですね。本当に海の男達の話です。前向きでしたね。
「和尚さん、海はいろんなものを私達に与えてくれた。それをただ返しただけだし、まだ海はそこにある。沢山の恵みがある。だから必ずまたそこからね、恵みが私達に来るから」というようなことを言いながら飲んだ訳なんですね。でもやっぱり、そう言いながら自分を鼓舞してたんですね、こんな感じで。皆で「乾杯!」ってやりました。
その時たまたま入って来たのがさっきの手紙を書いた女の子でした。「やあ、大変だったね。あの、おばあちゃんにね、拝んでねって言われたんで行ったよ。お父さん大変だったね」と言った瞬間にこの笑顔が泣き顔になっちゃって、それで私が話しかけてもプッと後ろを向いて避難所の玄関から出て行きました。で、もう暗かったんですけれども、私、ずっとその後姿を見えなくなるまで目で追ってました。あの、本当にこの笑顔の裏側にある気持ちっていうのが計り知れないものがあるなというふうに思います。

細浦というところなんですけど。この頃から他宗教の人達も多く駆けつけてくれるようになりまして、賑やかになり、西本願寺さん、それからそこに岡部先生なんかも写っていらっしゃる。少しずつ輪が広がっていったなという感じがします。どこに行っても、必ずこのコンセプトの看板は付けるようにしています。この方は遠洋か何か、マグロか何かだったでしょうか。とにかく「もう漁はできないんだ」というふうなことを話していました。


これがですね、フィリピンから来たお母さんなんですけれども、実はケーキを持って行った時、運んでいる最中に電話が架かってきまして、ケーキ屋さんからだったんですけれども、「名前が付いていないケーキがひとつあるから、和尚さんそれを被災地の方に名前を付けてもらって」っていうふうな電話だったんですね。それで被災地に行っていろいろ話をして「誰かこれ、名前付けてよ」というふうに思っていたら、フィリピンから来たお嫁さん、そしてここにいる子がすごくうるさくて、元気がいいというよりうるさかったんですけど"みらい君"という子供でした。ですので、このケーキは“ミライ”というふうに名前を付けて、今でも販売しています。今日のために作られたケーキ“ミライ”です。
こんな感じで軽トラック1台に全部積んでいきます。これは牡鹿半島の蛤浜というところなんですけれども、ここの写真はあまりないんですね。実は写真を撮っていたら漁師さんが来て、「お前達は他人の不幸を撮るのか」って怒られましてですね、チョッとカメラを収めたっていう感じで、結構そういうふうなシーンが被災地各地で見られて、やはり本当に気をつけなくてはいけないな。


ここで、近くに峰耕寺っていうお寺さんがあったんですけれども、このお寺はご住職がいなかったんですけれども、実はこのお寺を建てる時に若い人達がすごく反対したって言ってました。まあ、過疎のところでもあるし、「どんどん、どんどん人がいなくなっていくから、こんなお寺なんか建てる必要ないんじゃないの」というようなことと、年寄り達は「建 てなくちゃ駄目だ」と。もうその年寄り達はお墓の下に入っているんですけれども、いざ津波が来て避難所といった時に峰耕寺しかなかったんですね。だから年寄達に助けられました」って言ってました。そんなような場所です、こんな感じでですね。あのこちらは西本願寺さんですね。私達と違って髪の毛があるんですけれども、お坊さんです。

パラソルのテーブル写真

こうやって傾聴、ずっとこんな感じで、すごく綺麗でしょ。その向こう側に海があって瓦礫の山です。でも、ここは緑で遮断されててまるで別世界なんですけれどもこんな感じで大勢来るんですけども、実はこの後で少しずつ人がいなくなるんですね。さあ〜と人が引いていきます。人それぞれ都合がありますから。最後に残った2人とか3人位からは結構いいお話しが聞けるし、大抵が責任者なんですね。やっぱりこの避難所の責任者の方とじっくり話しをすることができるんです。やっぱり、どんな小さな避難所でも大きな避難所でもそれを運営していくことは大変なことなんです。いいことばかり言っていられないし、平等性を保たなくちゃいけないし、配給だとかの援助物資が沢山来ますので、それをどんな平等に分けるか、毎日苦労している、そんな感じです。


これ、あの南三陸町で、一番最初にできた仮設。実は南三陸町というところは平地がないので、山を越えた登米市の方に避難所を造ったんです。一番最初に造った仮設住宅です。私達も初めて仮設の方に入らせていただいたんですけども、この方達が住んでいた南三陸町は皆こんな感じです。今の仮設の方々が住んでいた町です。志津川町ですね。こんな感じですね。もうめちゃくちゃですね。

で、仮設の方に戻りますけれども、初めて私達が行って、お茶を出して、ケーキを出して皆さんが仮設から出て来ていただいた。それまでは同じ仮設でも隣同士お話しすることはなかったと言っていました。だから、あのすごくいい機会をつくったんだなというふうに思います。この時に初めて隣同士だとか、3軒、4軒隣の人と言葉を交わしたんですよというふうな声を随分聞かされました。

こんな感じでいつものようにやるんですけれども、このおじいちゃんなんか糖尿病ですが3個も4個も食べるんですよ。「じいちゃん駄目だよ」って言ってもまた来るんで、しょうがないからもうそのままにしておけということで、なんかこの時は4個位食べていました。  


子供たちの写真

子供達をこうやってね。
“Peace in Japan”っていうボランテア団体で、子供達を相手にして、私達は喫茶店の方で親達の話しを聞いている間に、子供達の面倒を見て下さったというような感じです。
こんな感じでいつもやっています。



これは実は気仙沼線というところなんですけど、線路です。線路が全くなくなっちゃったんですよ。チョッと黒く見えるのが線路です。ずっとあっちがトンネルになっているんですけども、そこでも“Café de Monk”させていただいた。
この時はあれでしたね、避難所とそれから仮設が半々でした。非常に雰囲気が悪いというんでしょうかね、避難所の方は仮設に入りたい、仮設に入った人達はもう支援物資はない。避難所と仮設の間に摩擦があってですね、私達はどちらの区別もないですので、真ん中につくるんですけども、やっぱり来るのは避難所の人で、避難所の人は仮設の人達を見ると白い目で見る、そんな雰囲気がありました。
私は始めてこの時怒りましたね。避難所の方に。いずれは抽選で必ず当たるんですよ。でもやっぱり10日間、20日間ていうのは待てないというか、焦るんでしょうね。だけどある人に「あんたクジ運悪いんじゃねえの」って言ったら、「いや俺は普段パチンコだとか、そういうのは本当強いんだけど、今回バチ当たったんだよ」てね、言ってましたけども。

子供たちが来た写真

こんな感じで子供達に来ていただいてですね、すごく嬉しいです。どこ行ったって子供の顔を見ると、やっぱり子供は“未来”ですね。

そういうような状態で非常に雰囲気が悪かったですから、警察官も時々見回りに来るんですけども「おまわりさん、おまわりさんお茶でも飲んでいきなさい」とお誘いしたら「いや本官は今勤務中ですから」と。「そんなこと言わないで、どうぞ、どうぞ」と言って40分位いましたかね。当時の避難誘導の様子なんかお聞きしました。警察官も多くの警察官が亡くなっています。


公民館の写真

これが篠原老師と一緒に行った大原浜というところです。これは牡鹿半島、反対側に女川原発があるところなんですけれども、公民館のようなところが避難所の配給所のようなところになっているんですけれども、この時に名古屋のお坊さん達が手伝ってくれたんですね。沢山のお坊さんがいて、皆奥さん達笑っているでしょ。若い和尚さん達が来るっていう んで、皆家から出て来てですね、こうやってね。

笑顔の写真

とても被災した人には見えないんですけれども、最近はあれですよ、肉食系、草食系ってあって、さらにその上に僧職系男子っていってですね、字が違うんですね。僧職系男子っていってすごく僧職系がもてるそうです。僧職系って分かります? 僧職系の男子のことなんだそうです。


私も傾聴活動をしている時ですね、標準語で喋らないんですよ。あっちの言葉で喋るんです。あっちの言葉っていうのは気仙沼語なんです。「あだず、こだず」と言っているだけなんですね。そんな感じで喋らないと駄目なんで、ついついも滑舌が悪くなって標準語が出なくなっちゃってお聞き苦しいところがあると思うんですけども、傾聴はやっぱり土地の言葉で突っ込んでいかないと絶対に返ってきませんね、という感じです。僧職系です。


黒い髪の毛の女の子の写真

この黒い髪の毛の女の子の話しを聞きましたら、3月9日に辞令をもらった新米養護教諭の女の子なんですけれども、「3月9日にこの近くの小学校に辞令をもらったんですけど、3月11日の津波で全部流されちゃって、私の行くところなかったんです」って言っていました。
それで1ヵ月後校長先生に電話がつながって、1回も会ったことが無いんだけれども、電話口で2人で泣いたって言っていました。
今一生懸命、6人、7人の子供達なんですけれども面倒見ています。「子供達、何やってんの?」と聞きましたら、「なんだかわかんないけど、とにかく山駆け巡っています。何が面白いんだかね〜」と言っていましたが、子供の回復力はすごいなと思います。こんな感じでブランコですから。“未来”ですよね。


鮎川浜の魚店写真

これ鮎川浜です。ここに篠原老師、写っています。
一緒に行った時なんですけど、こんな状態で沢山の思い出がまだまだ持ち主の方に帰らないであります。ここは公民館でした。公民館が津波で全部持っていかれて、中に残ったのはこの骨組みだけで皆この中でやったんで、非常にシュールな空間で、喫茶店やったんですけど、和尚さん達が、ラケットのようなものを持っているじゃないですか。見えませんかラケット。あれはハエタタキなんですよ。この頃すごいハエが一杯出てもう大変な状態だったんですね。で、和尚さん達がこれでハエを殺していたという感じです。


消防士さん達の写真

消防士さん達です。鮎川では160人位亡くなったそうです。その時の様子を克明に教えていただきました。一生懸命本当に警察の方、消防の方、自衛隊の方、お医者さん、皆本当にこの1ヵ月の間は、一生懸命でした。ボランティアも皆若い人達で関東圏から来ているボランティアです。
「この町が好きです」って言っていました。


津波の被害があったところだけが被災地じゃあなくて、実はこれ仙台なんですけども、仙台も隠れ被災地でございます。被災地からかなりの人が仕事それから学業のために、仙台の方に来ています。その人達というのはサポートする人もいませんし、家に帰ればアパートに一人暮らしですので、何とか仙台の方にもですね、傾聴できる喫茶店がほしいということで、いろいろ探して、“おでぇ〜らに”っていう喫茶店です。何ていうんでしょうか、重度の難病の方々が集うところを貸していただきまして、このような形で仙台の街中にも“Café de Monk”を開きました。チョッと1回だけで、オーナーが具合悪くなってしまったので、今次のところを探している最中なんですけれども、こんな感じですね。いろいろな人が来ていただきました。

これは石巻です。渡波(わたのは)小学校、小学校に突っ込んだ車です。渡波辺りが一番ひどかったんですね。こんな感じですよ。やっと瓦礫をこっちの方へ寄せただけのとこで、本当に車1台通れるか、通れないか。次の問題ですね。ここは地盤沈下して浸水するんですね。だから大潮の時になったらこの辺りまで全部水が上がって来たと言っていました。

その渡波から避難している鹿妻(かづま)小学校の避難所で、この時は35度ありました。だからケーキじゃないなというんで、かき氷を持って行ってきました。 このようにしてお坊さんが膝づいて、おばあちゃんの話しを聞いています。このおばあちゃんは自宅に避難している方で、お弁当か何かを取りに来られた方です。沢山の自治体の方からもですね、このような形で保健士さんですとか社会福祉関係の方が沢山現地に入っておられて、今でも活動しておられます。


これは七ヶ浜。七ヶ浜というのは仙台湾なんですけれども、仙台湾のコンテナが流れ着いたんですよ。普段だったら7月ですから海水浴客がいるんですけれども、今年はとってもじゃないそれはできない。
で、海の祭りっていうのに参加したんです。子供達が海で遊べないって言うんで、じゃあ海のお祭りをしようということで、こうやって参加させていただいたんですけども、やっぱりお坊さんの、こう頭丸めたお坊さんがいると寄って来てですね、1時間でも、2時間でも「ああでもない、こうでもない」と喋っていく。やっぱりお坊さん、この姿というのは特別なんですね


大工さんの軽トラック写真

“Café de Monk”がいろいろマスコミに取り上げられますと、またネットなんかに載りますと、いろんなところから情報が行ってですね、北茨城の大工さんが親子教室で縁台をを作ったって言うんです。それを普段だったら作ったら自宅に持って帰るんですけれども、今回はそれを仮設に寄付しようってことで、私の方に連絡が来まして、どこか仮設に入れるところがないかっていうことで、ご紹介してそれを配布する形になりました。このような形でやっぱり仮設はですね本当になんていうんですかね、こういうふうな細かい縁台とか、ひさしですとか、日除けですとかそうったものは全部自前でやらなくちゃ駄目なんで、こういう縁台があるとすごく助かるんですよ。こんな感じでですね。縁台を配りながら梅干が援助物資で来たもんで、梅干とおにぎりで“縁結び”みたいな感じでそういう語呂合わせ何かやったような気がします。


あ、さっき出てきたおじいちゃんです。あの、糖尿病でケーキ4個食べちゃった。隣がおばあちゃんですね。こっちに写っている茶髪の連中がですね、私がずっと私の行っている寺子屋なんかに来ていた連中で「おまえ等も何かボランティアやれ」と言ったら、「お小遣い集めました」って言って6万円ばかり集めて、それでスイカを買って持って来たんですよ。それでこんな感じになったんですね。スイカ割をしようとしたら、赤ちゃんがチョコチョコ、チョコチョコ、まだオムツをしてですね、そんないい微笑ましい風景でした。     


現地にはですね、今回随分歌手の方々が沢山入りました。私も懇意にしている歌手の方が いましたので一緒に、お供したんですけれども、“やなせななさん”という方で、奈良市にある浄土真宗、西本願寺のご住職です。

やなせななさんの写真

歌手でもあるんですけれども、その方と2次避難所回りをしました。南三陸町は避難所があったんですけれども、さらにそこから内陸方へ避難して来たんですけれども、そこをずっと二人で回ったんですけれども、皆さんですね、唄った歌が、まあ彼女も持ち歌あったんですけども“ふるさと”という歌は、あれは涙腺を破壊しますね。もう大概はこちらの方も泣いているんですけども、本当に避難された方の気持ちを良く唄った歌だなっていうふうに思います。
「でも負けない」というふうな“負けないタオル”もですね、ここなんかも山奥の避難所なんですけれども、もう80キロ位は離れているんじゃないかな? ここにも行って、“ふるさと”の歌を唄って励ましてきたというような感じです。


ここは一番大きな避難所で金成の延年閣という温泉だったんですけれどもここは200人位いました。2次避難所です。山元町の、山元町といってもう福島に近いんですけれども、支援学校がありまして、この町でも1,500人亡くなっています。行って励ましてきました。
ここは6号三陸自動車道。今回、そう三陸自動車道が津波の防波堤になったんですよ。
こちら海側は壊滅、こちら側は助かったというような、たまたま向こう側に住んでいた人達が避難していた六郷中学校というところでもやったんです。


この方はですね、皆さんご存知だと思います。チョッと知り合いだったんで「やってよ」って言ったら「いいよ」ってことで、後姿見ても分かりませんよね。ただこの人はお寺の三男坊です。ここまで見せれば分かりますか。分かります、分からない。こう来たら分かるでしょう。“南こうせつさん”なんですよ。こうせつさんはお寺の三男坊の方で、私達とは随分いろいろな交流があるんですけれども、このお寺はチョッと、しょっちゅうマスコミに出てきたんですけれども、「鶴瓶の家族に乾杯」でも放送されました。


渡波の洞源院さんという所で、400人、8月辺りまでですかね、避難所として避難者を受 け入れたところに南さんをお連れしてコンサートをしたんですけれど、この時はですねさ すがに南こうせつさんも絶句しましたね。
実は6時から始まるコンサートだったんですけ れども、まったく打ち合わせ無しでですね、始めようかなっと思っていたら、「チョッと待 って下さい」という話になって、3体のご遺体が上がって来たんですよ。この三つがその 時の遺体というか、霊骨、お骨です。お母さんを助けようとして二人の息子さんのお嫁さ んがお母さんを助けようとして3人とも亡くなってしまって、たまたまこうせつさんが来 た時に火葬してお寺に持って来た。その時と丁度開会時刻がぴったりと合ってしまってで すね。こうせつさんもさすがに「神田川」を唄っている最中に唄えなくなってしまったん ですね。しばし絶句した。
これが被災地のコンサートのというか被災地の現実なんですね。 このように子供達と最後に歌を唄ってですね。


これ可愛いでしょ。これ洞源院にいた猫です。実はここの時、私ただ撮っているだけではなく猫と問答してたんですね。問答してました。「お前は400人の被災者の喜びも苦しみも全部見ているはずだと。何とか一句いかん」そしたら、「ニャン」「エッヘ、エッヘ、エッヘッへ。俺はどうしたらいいんだ」「ニャン」「お前は悩まないのか」「ニャン」それだけでした。あまりにも可愛いんで、一枚ワンショット。猫は悩まないのかな。
でも、随分この“さくらちゃん”というんですけれど、このさくらちゃんに癒された方が多いと思います。猫は悩まない。


これは吉野沢というとこです。奥にいらっしゃる方はシスターで、こちらが精神科医のお医者さんでなかなかやっぱり上手く傾聴活動ができないっていうんで、1回チョッと見させてくれということで来ました。
やっぱりシスターはすごく優しい顔してますよね。私なんかよりずっと癒すと思うんですけれども。やっぱりさっきチョッと言ったんですけれども、東京の標準語で話しかけるんですよ。やっぱ、「シスター、いかがでしたか」って言っても駄目ですよ、こちらの人は。「なじょでがすた?だべ?そうだったのすか・・」そう言ってみたら?ってアドバイスしました。
精神科の方にも「いや先生、何でもかんでも精神科じゃないんじゃないの」っていうお話をしました。あの強い、こう悲嘆っていうんでしょうか、悲しみは今回ものすごい深いものがあると思うんですけれども、時として体調崩したり、自分を失ったりっていうふうなことがあるんですけれども、それってやっぱり確かに病院に行けば何がしかの病名を付けてくれるんでしょうけれど、それはそうじゃないなというふうに私は思います。
そんな、こんなの話をここでディスカッションしたんですけれども…。


仮設に住むすごく前向きで楽天的な家族です。この方がこの仮設を仕切っている若い女の子なんですけれども、この方のために皆がいい雰囲気になっていました。「今度、千葉で講演するからさ。あの、家の中見してくんない」って言ったら見せてくれました。
今公開します。これが仮設のお風呂です。洗濯機、トイレそして4畳半位ですかね。隣にまた4畳半。海の人は信仰深いですから仏壇もある。これが台所。こんな感じなのが標準的な仮設です。今仮設で一番困っているのは寒さ対策ですね。石油ストーブが焚けないんですね。


この人は“鶯のおばあちゃん”といって、旦那さんが亡くなる日の朝に鶯がやって来て私に話しかけたと。「和尚さん、あのう鶯というのはおじいちゃんだったのだろうか」というようなことでした。私は迷わず「それはおじいちゃんだ」「何んでですか」「いや、私達の命は皆繋がってっから、おじいちゃんが鶯になったり、トンボになったり、いろいろな形をして来るよ」というようなことを言って慰めました。


最後にこの赤ちゃんなんですけど、この赤ちゃんは一番最後の方ですね。
これ、“Café de Monk”は大体4時位で止めるんですけども、もう4時になって少しケーキ余っていたんで、「じゃ、皆で食べながら反省会しようか」というところで、入って来たおじいちゃんと孫さんなんです。けれども「ケーキありますか」って、「ありますよ」と言って、ケーキを出していろいろ話を聞いたんですけども、この子のお母さんは3月11日の津波の時に車の中にいて被災してそのまま亡くなってしまいました。
この子の誕生日が3月13日、1歳の誕生日が。その前に亡くなってしまったんですけども、車の後部の座席にはこの子の誕生日のプレゼントが山のように積んであったということです。私達が行った時は誕生日から5ヵ月でした。だから、この子は1歳5ヵ月でしたよ。そしたら、毎日、毎日、少しずつ、少しずつお母さんの顔に似てくるんですって。「それを見るのもまた辛いんで」てなお話をして下さいました。
このようなお母さん失った、お父さん失った子供達が沢山います。

お位牌の写真


お位牌。位牌を持って逃げた人が沢山います。位牌のために死んだ人も沢山います。けれども、位牌が無いと前に進めないという人も沢山います。




あと用意してきた写真は何10枚もあるんですけども、大体このような形で活動を続けさせていただいてます。これは石巻の仮設なんですけども、ここだけで1,500あります。もうばらばらに入って来てますので隣同士の会話もほとんどない。自治会も立てられない、そしてこれから冬がやって来ます。冬がやって来るとですね、長い夜が待ってます。「どうなんですか」って聞いたら「やっぱり夜は寂しい」って言ってました。 そのような状態がずっと続いています。


カフェのラジオ番組化を知らせるチラシ

この傾聴喫茶“Café de Monk”もラジオ番組になりました。 皆さんのチラシの中にもそのラジオ番組のご紹介が入っています。「ラジコ」というものでこちらでも聞けることになっています。

注)ラジコ : radiko.jp Date fm 仙台 インターネット上でAM/FM地上波ラジオを聴けるサービス FM仙台が配信されています。Café de Monk Date fm仙台 土曜日8:00-8:25

この他にいろんなことをやります。これは陸前高田。ついこの間です。10月9日、行きましたらまだお骨を50個程お寺さんで預かっておりました。ここで追悼の西馬音内(にしもない)の盆踊りをしました。この時のことについては話をし切れないことが沢山ありますけれども…。

最後に…これは実は私の妻の母です。私のところに津波の避難でやって来てます。86歳で。このような状態で家はほとんど半壊状態なんです。犬と二人で来ています。そのような形で直接被災をしてなくてもですね、その後側にいる人達は被災した人達を受け入れなくてはいけない。そうすると今迄の人間関係ですとか、生活ですとか、ライフスタイルが全く変わってしまうんです。ですので被災地の方に目がいくんですけど、それは当然なんですけれども、ただ次の段階、次の段階、次の段階というふうな形で、この大震災の影響というのは時が経つに連れてジワ〜と広がっているなというのが私の印象でございます。
まもなく東北の長い冬がやってまいります。本当に寂しくて孤独な冬です。とにかくこの冬を何とか1回乗り切って次の春まで頑張らなくちゃなっていうふうに、今はその想いで一杯でございます。本当に語り尽くせないことが沢山あります。

とにかく篠原老師も先程言っておりました。
私は絶対に忘れてほしくない。それは被災地のことだけを忘れてほしくないということだけでなくて、あの時のことを忘れないようにして下さい。あの時のことも、これから考え続けて下さいと私は言いたいです。
あの時のことって何かって言ったら、私達の命と心がひとつになった瞬間だったんです。多くのものを失ったんだけれども、大切なことが蘇った瞬間だったはずなんです。それぞれの立場で我を忘れて一生懸命生きていた瞬間っていうのがあの時でございます。もう7ヵ月経ちますとですね、少しずつ、少しずつそういったことを忘れていって、また元の生活に戻っていって、また同じような生活を繰り返してしまいます。人間は忘れる動物です。本当に愚かなものだと思います。ですのでぜひ皆さんにお願いしたいのは、あの時のことを忘れないでほしい。被災地も忘れないでほしい。というふうに訴えたいと思っています。

私とあなたの命と心がひとつになるっていうことは、自死問題等、他人の人生に係わる活動をしている人には本当に大切なことなのではないのかなと思っております。
本当に拙い報告でございましたけれども、この写真っていうのは私自身のために撮り止めたもので、もっと皆さんにお見せするんでしたら良い写真を撮るんですけれども、このようなものを使いながら、一応現地からの報告にさせていただきたいと思います。

講演の様子


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